Since '95.11.11. 最終更新日時:2011/11/17

最終的には、経験しないとわからない、筆頭なのかも

最終的には、経験しないとわからない、筆頭なのかも はコメントを受け付けていません

阪神大震災:被災14年 7千本の灯ろうに「希望の灯り」 – 毎日jp(毎日新聞)
当たり前だが、今年も1月17日がきた。
14年前、浪人で15, 16日にセンター試験を終えて、まー、感触的には“今回も、国立は難しそーですな…”という感じで、17日は予備校で自己採点に朝から行く予定だった。
16日の天気とか、雨戸を閉める前の空とか、全然覚えて無いから、やれ電磁波雲だの、オーロラっぽいモノだの言われても、あまり信憑性が無い、としか思えない。
寝ていると、車などが走っているような、ゴーっ、という音が聞こえた気がした。それで目が覚めた、それぐらいの音だった。瞬間、P波が来た。当然、完全に目が覚める。その時には、まだ、地震と自覚が無い。
おそらく1秒から2秒の後、S波が来た。「起震車」などで体験学習などすることが全くなかった関西人、とりあえず、ベッド周辺には、上から落ちてくるモノが無いのを目視で確認しつつ、揺れの収まるのを待つしかなかった。
後日の、各所地震計の詳細データによると、大阪では南北方向に震度7同等に揺れた地域だった、ということがわかった。
その、南北方向を、もろに受けた、北の壁に沿っていた本棚。
S波の揺れ開始と同時に、本が棚に入った形のまま、スポっと抜けて、落ちていった。だるま落としと理屈は同じ、とわかっていても、本棚の幅は、アバウト30cm。それを、本がひきずられること無く、丸ごと宙に浮くということは、30cmどころか40cm近くは、一瞬で北方向に地面が動いたことになる。
一通り、第1波が過ぎたところで、とりあえず隣の部屋の両親と安否確認をしようと部屋のドアを開けたら、天井に階段を付けて、屋根裏へ上がれるようにしている、備え付け階段のロックが外れて、全開になっていた。耐震ロックが無い、というのは、こういうことなのだと、その時までわからなかった。
1階に降りて、状況確認をしたら、アップライトのピアノは、斜めになり、ピアノの上に置いていた、小さめの時計が、部屋の対角線上壁際まで転がっていた。
書棚と食器棚は、かなり強力な磁石で閉まる物を使っていたため、扉部分に当たって、多少割れた食器があったが、外に出て壊れる物がなかったのが、せめてマシなことだったかもしれない。
テレビで、初めに出たのは、死者数名。その後、時間を追うごとに、倍々になっていくぐらいの増え方をしていく。
阪神高速が倒れている。その瞬間は、もはや意味不明。だいたいから、あのコンクリの柱が壊れる、ということ自体、素人で予測などできない。
電車は、間引き運転になりつつ、一応動いていたので、午前中にとりあえず、予備校まで行ってみようと、難波までいつもの倍ぐらいの時間をかけて行ってみた。
予備校の校舎は、ひびが入って黒板が落ちた教室もあったらしく、さらに、屋上の給水タンクが破損して、上階から水浸しになっているので、ひとまず1日臨時休校となります、と。
その時点で、同じクラスだったダチ連中には、来なくて良いらしーでー、と連絡。まだ携帯なんぞ無かったから、家電話に、微妙にかかりにくくて連絡したよーな気がする。でも、かなり、記憶が薄い。というか、そもそも、何を記憶したら良いのか、わからないほど、異様な感じだった。だから、記憶しないでおきたい、という反応が出ていたのかもしれない。
過去に、関東大震災というものがありながら、9月1日に避難訓練はするものの、それだけで、他にはなにも活動が行われてこなかった学校・地域。
あれ以来、この13年間は、耐震性能なども、ようやく全国的に言われるようになってきたのかもしれない。
でも、結局、関東でしか住んでいなくて、同じぐらいから、下の世代にかけては、たいして大事とは思われていない。
そりゃまぁ、私も19年8ヶ月までは、関東大震災が、どんだけ凄かったのか、わからんかったから、しゃーないね、というのはわかります。
ただ、関東大震災の頃と、情報のリアルタイム性とか、通信網の発達とかを考えたら、もーちょっと身近に感じて欲しいのだがなー、と思った。
ま、百聞は一見にしかず、というところか。。。

Comments are closed.